昭和41年10月14日 夜の御理解
おかげを頂く心の状態というのは、どう言う様な状態であればおかげを頂くかというと、一心の信心をさして貰い、心の底から何か知らんモリモリと、こう湧いて来る様な元気な心やら、喜びやらが「おかげになる」「おかげになる」とこう心の中から、こう出てくるようなもん。いわゆるその信念。「おかげになる」それはどういうおかげになるかそれは分からん。けれども、必ずおかげになるとこう確信さしてもらう。確信するその心におかげがある。神は信ずる者を信ずると仰る。
ですからその、確信が生まれて来るところまで信心は進めていかなければならない。その信心を進めていく道すがらに、と申しますか、に、自分というものが段々分かって来る。自分というものを掘り下げて見れば見るほど自分というものが赤裸々に見つけて頂くように、自分の心に信心の光が灯れば、自分というものが愈々分かって来る。自分の心には、こういう汚いものは無いと思いよったけれど、こういう汚いものがあったと言う様に。そういう信心を進めていきよると必ずそこへ行き渡る。
そこでその、そういういわゆる、私のようなと私のような、ほんと私のようなという、その謙虚な態度と姿勢というものが出来てくる。その謙虚な言わば心。いわゆるその、横着であったり、我がままであったりということは、おかげを受けない受けられない元。お道の信心をさしてもらえば、この横着と我ままだけは取らなきゃでけん。横着である我がままである。この横着である、我がままであるということがまた、検討してまいりますと、はあこれも横着だった、これも我がままだったと思うことだと。
そこで、私どもが謙虚な心でそれを相済みませんと、こう詫びぬくような心。今日私はあの、先ほど今日も高山さん、今日は六名でした。今日はあの、自分のところの車二台で足りませんから、トラックを吉井から雇いましてね、そしてその佐田さんところに献木のお供えが、植木のお供えがございますから、それを頂きいかれました。それがもう今日のはもう大きいんですね。途中でその、佐田さんから電話が掛かってきとる。もう今日はもう、松がその、それがこう大きくて出ません。
どうぞおかげ頂きますようにと言うてその、電話掛けなならんほどに、まあ扱いにくい大きな木。でしたからもう、もう今日も朝から、一台は自家用車ですけれども、二台のそのトラックに一杯積んで、もうそうとうでしたけど、一・二時間前でした。それで、現場に行きゃもう植えることが出来ずに下ろすだけにして、そして、ならまたここに帰ってみえて、今さっき皆さん帰られましたが。
その、途中でここに寄られましてですね、ちょっと先生見て下さい。こげなようなでこの木がある。と言うてその私に言われるから私下りてから見せてもらいました。ほんになるほど、そのあちらに献木があるというので高山さんが見にいかれた時に、玄関に大きな高い松が植わっておる。あれは、佐田さん秋永先生がいつも言いよんなさる、その、直前の間あんまりだけん、高い松が一本植えとるち言いよんなさる。
これなら丁度よかですばいち言わっしゃった。ほんとに心臓の強いことじゃありますけれどもね。けどもまあ、その佐田さん達、まあそれまではと思うておった。ところがその事をその、お祖父さんやらお母さんやらに話されたところが、はあもう、あれは椛目の舎地内に植えられるるならもうよかどこじゃなかちってもう、その大賛成でそのおかげを頂いた。そのそっちの今日は松の木を、まあ掘りにいかれたわけです。
それはもう下にですね、もちの木がこう根がもう真っ黒でした。それでそのもちの木と一緒に、まあ切らにゃならん。まああれなんかほんとにその、松の木にもちのねもちの木がこうやって付いとるなんてもう、じつに神ながら事だと私は思うのですけれども。それが例えば、私はあの、客殿の前のところへ高くあれが植えられた時の事を想像させて頂いた。先ほど私、その、これが人が育った時のその事を御礼申さして頂いたらその事を感動させて頂いた。
本当にもう、思いもかけない所からおもいおもい、例えばこれは、いや他の事もですけれども、その今からこの庭にかかってちゃ、そのお供えがあっちこっちから申し込みがあっておるという事。しかもそれがほんとに神ながらな物が神ながらに集ってくるという事。ああゆう庭木にあの木を植えさして頂いて、私はもし許されてね、あちらの、合楽のお広前の中心として、私おかげを頂くようになりましたらと、次の決意を私が神様に思うた事をこう、伝えようとしていただく時にです。
もう神様は何とも言えん感動をもってここに応えて下さる。私が次に、例えば私がもし毎日、ね、私をして、あの合楽のお広前の中心として私をお使い下さるならば、私達がもしあの庭に入って良いならば、ね。また私があの庭を、この木を並べて良いならば、次に私の心の中に動いたんです、ね。その事をです、その事を私が、もし私が合楽のお広前に住まうことを、また中心としてお許しを頂くならばという事を私が感じた時に、もうそれこそ大変な感動を受ける。これは、もう天地の感動だと私は思う。
神様がお喜び下さるのはそこへんだと思うです。また、当然私があそこへ行くんだと、もう誰が行くとか私が行かにゃ他が行きてはなか。また中心の私でなかなにゃでけん。こういう思い方は、もう大変な横着な考え方と思うですね。まだ神様がお前にやると仰ったわけでもない。まだあそこに住んでよいと仰ったわけでもない。いや、もう明日いよいよ移るという時、私心の中にそれ言うた。
夢さえあれば出来るこっちゃない。私は、ああやって出来よりますけれども、とにかく親先生中心に、親先生中心にして事がなされていきよる。それは結局私があそこへおかげを頂かしてもらい、あそこに座らして頂くということになるからであるけれども、ならそれとてもです私としては、今私はまだ分からんというのである。ね。私がほんとにあちらに座らして頂くやらどうやら分からん。
私はこの、これだけの事をしよるからこのぐらいの事はあたりまえというそういう心には、神様の心は移ってこない。神様の心に通わない。ね。私がこれだけ働きよるけんこれだけ給料貰うてあたりまえ。ここには感謝もなからなければ喜びもない。ね。私がもし、ほんとにああゆう見事な・・・、昨日、秋永先生が話しておられましたが・・・誰やったですか東京から最近帰ってきた・・・。昨日ちょうどたまたま、あの、東京の(こうじ?)のところに勤めとるあの、宮園といいますところの鮨屋にですね、やらして頂いた。
そしてそこにあの新出光の社長がたまたまお鮨を食べに来とった。そして盛んに久留米にこういう素晴らしい金光様が出来よるぞと言うてから他の人に話しよんなさる。それを皆さんが聞いてからおかしかったという話をちょっと向こうで聞いてきてるわけなんです。新出光と言や、それこそスターなんですけれども。やっぱり行ったり来たりするうちにです、何か金光様か何か聞いたな、あったかなんかじゃないでしょうか、久留米にはこういう金光様の教会が出来よるちゅうて。
はあ私達の親教会ですよち皆さんが言いたかったようなそういう、まあ話があったと言うてですね、というくらいに皆にひとつのセンセイションを巻き起こすくらいな建物が言わば出来ていきよるわけなんです。ですから、私があそこへ座る座らないとは分からない。私の家族があそこへ行けれるかどうかも分からない。ああやって出来よるけれども。いわば私好みに出来ていきよるけれども。ね。
神様が、例えば機感に適わんならば、私がいよいよ明日、いわば遷座げな、移転げなという時に私がコロッと前の晩亡くなってごらんなさい。もう私はあそこに座ることは出来んのだもん。ね。神様に許されなければ出来るこっちゃない。ね。もし万一私が許されてあちらに参りまして、あの庭を眺め、あの木を眺めさして頂く時に、私の心の上に次の決意がなされる時です、神様は何ともかんとも言えんくらいな感動を。私はこうやって応接台を握って応接台ががたがたなるぐらいに感動を頂く私。ね。
そういう心がけを私、神様が喜んで下さるんじゃないかと私思うです。ここにはどういうもんがあるかというと、いよいよ私というものを掘り下げてもう私の、私のような者にというところから、そういう心が起こってくるのですね。私がこういうのを頂く資格がありましょうかと。私がこういうものを飲ませて頂く資格がありましょうかという内容なんですね。そこに私は自ずと生まれてくるのが感謝の心だと私思うのです。
ですから、ここに私、今日の御理解聞いて頂いて、分からしていただかなければならんことはです、ね、私どもが一生懸命信心さしてもらって、モリモリしたような心が、心の中に頂けてくるんです。そしてもうそれこそ確信です、確信に満ちた「おかげになる。」「心配しなさんな。」例えばある場合には、断言できるくらいな信念というものが、心の中に培われ、これなんかはけっして横着じゃない。神様を信じきったんです。ここ一歩間違えると横着なんです。
信心は出来んのに「おかげになる」なんて言うのは、これは大変な横着だと私思うんですよ。ですから、心の中から湧いてくるようなもの。私は、一心の信心をさしてもらい、一生懸命の修行をさしてもらいよる時に、不思議にそういう、もうモリモリとした「おかげになる」と確信が湧いてくる。ね。ですから、私がお取次ぎさして頂いてから、おかげになならんはずはなか。
おかげ頂くけんならんとが悪かつばい、と、如何にもそれを、まあ聞きようでは横着なような慢心のような表現ですけれども、そうじゃない。神様確信してからのこと。かと言うと一面にです、只今申します、いよいよぎりぎりの私を見極めたときです、ね、私がこれを頂く資格があろうかと、いや、資格のない私に神様がかくまでのおかげを下さってという、私は自分というものをギリギリ掘り下げさせて頂いたところ。ね。
自分というものを、そのいわゆる自己嫌悪にかかるような、いう考え方ですけど、それとは違うんですね。自分というものを掘り下げさしてもらい、自分というものがほんとに分かってくる。分かってくる時に、とても不平だん不足だん言うだんじゃあない。もし、万一私があのお広前を中心に私がおかげを頂かしていただくようにならして頂いたらそうなんです。もし万一なんだと。
それを何とか私の、私のいわば、私をお使い下さって私を中心にして、あそこのお広前を建立なさっておられるという神様のそれは御神意かもしれん。けれどもいつ神様からお暇がでるやら分からないちゅうのです。教祖の神様にある方が、ほんとに金光様、あなたは皆んなから「生神様、生神様」と称えられなさって、神様から天地金乃神と同根とまで仰られるほどしの御神格、御神徳をお受けになられて、ほんとに有難いことでございますという意味のことを申し上げた時に、金光様が仰った。
「いかに私とても神様からいつ暇が出るやら分からん」と仰る。もうじつにその戦々恐々なものを心の底に感じておられた。またひとつの心のそこには、金光大神の言うことに間違いがあるかというようなことを沢山仰っておられます。川手文治郎が言うとるんじゃないぞ。金光大神、金光大神としての、その、あり方である私どものまえにお取次ぎ下さった時には、もう厳然としての金光大神としてのご発言をなさっておられる。かと言うと、生神様と称えられなさるから。
ほんとに結構でございますというそのことに対してです、如何に私とてもです、いつ神様からお暇が出るやら分からん。暇が出たらもう金光大神という御神格は、もう取り上げられてしまうのだ。もとの百姓に百姓文治に返らなければならんのだというようなお考え方。この二つの面がですね、いわば天地を動かすようなおかげになってきたんだと。これは、私の心の中にもそれをいつも、その二つの心を自分で感じます。ね。
ですから皆さん、ほんとにあの、信心というのはですね、ほんとに微妙です。全然反対な心、その反対な心がです、ね、神様をキャッチし、神様のおかげを、いわば天地が自由になるほどのおかげを自由にする事の出来ることになってくるのです。ね。その両方が、何とも言えんひとつの、ひとつになった味わいというのがです、ね、私どもの信心さして頂くものの一つの冥利だとこう私は思うのです。ね。いんにゃおかげ頂くがの、信心も頂けん本気も確信もないのに、これを例えば言うことは、これは横着だと。
慢心だと私思うのです。けれども、下から押し上げてくるようなもの、ね、時に例えば「おかげになる」と確信出来れる、その、心と。ほんとに私のようなものがという謙虚な、謙虚というよりも何と申しましょうかね。ほんとに神様から、例えば何一つ頂けれる資格もないほどの私だということなんです。にも関わりませず、こういう着物を着せてもろうたり、こういうものを食べさせてもろうたり、こういう極楽させてもろうてからというところにです、ね。
ほんとに有難い、相すみませんということになってくるのです。それがどうでしょう、働きよるけんこんくらいなこたあたりまえ。こんくらいなもな食べな。そういう心には神様は、私は働いて下さらんとこう思うのです。どうぞいよいよ信心を進めさしてもろうて、そういう自分というものを見極めさして頂くと同時に一生懸命の一心の信心をさしてもろうてですね、心の底から湧いてくる確信が生まれてくるようなおかげとを相まって心の中に頂いていくおかげを頂いてもらにゃならんと思いますね。
どうぞ。